川上弘美作品を全て読んだ訳じゃないけど、彼女の中でもっともふつうの小説ではないか。出来が凡庸というのではなくて、あるようなないような、ありそうでなさそうな、そのあたりの感覚が最もリアリティを伴うバランスに保たれている。そんな気がする。
長編小説だからというのもあるのだろうけど、それは多分、登場人物がふつうにひとをすきでいるから、だからあんしんするのではないかとおもう。
もちろん、沼にはまったり膜に包まれたり耳がねじれたり、そういうのがふつうと言いたいのではないよ。
冒頭で、姉はサルのタマが死んだときに「死ぬというのはもう生きていないということだと分かったから絶望の淵が怖くなった」と発言している。
生きていないというのはもう一生(というのはおかしいが)変化しないということだ。
それがひどく姉にはおそろしい。
すずもとの「えんりょのない」、ものが厳然としてそのものである冷たさのためにミドリ子は口が利けなくなる。引越しを繰り返し固定されることを厭う紅郎は女性的に映る。そのためにミドリ子と「私」は紅郎に惹かれる。オトヒコさんはうそばなしによってたゆたいながらもその頑固さによって出芽する羽目になる。チダさんは狂言回しとして、よどみかける流れをかき回す。ものごとが死んでしまわないように。
「誰かを好きになるということは誰かを好きになると決めるだけのことなのかもしれない」
誰かを好きになると決めるために、人は理由を探す。
顔がいいとか優しいとかなんとかかんとか。
でもそうやって明確な理由で固定されてしまった感情は果たして「好き」であり続けるのだろうか。
「好きなのかもしれない」というオトヒコさんの夢の中の出来事のようなあいまいなものが「好き」であるならば、その不確かさをつぶさないように手のひらで受け止めてうつらうつらと抱えるのがいい。