昨日の「いとしい」がものごとが永遠に、普遍的に、厳然としてそのものであることへの畏れについて書かれているとするならば、こちらは我々の意図などお構いなしに、深いところに凛と存在するものごと‥‥ありていに言うなら「完全性」と「真実」の姿の美しさを全編にちりばめた話と言える。
博士と兄と未亡人のあいだに三角関係があったのかとか博士の死因は結局なんなのかとかそもそも博士は死んだのかとかそういうことは何も書いていない。
博士が死んだのだとしたらそれは全き数「0」になったのだから美しいことだけれどもそのほかの事は自然の調和や神秘の生み出す完全性の前では取るに足らないことだからだ。
この本は博士(と登場人物たち)の個性的な人格の描写が評価されているけれども、博士が80分しか記憶を保持できないとか数学の博士(というより数学バカ)であるとか、そういった設定は二次的な意味しか持たない。これは博士が惜しみなく与え、ルートが際限なく受け取る愛の物語だから。
博士の専攻は数学でなくて物理学でも哲学でも良かった。記憶は、博士の完全性(≈不変性)を演出するための小道具に過ぎない。
一般的に博士しかも数学の、などというと気難しくてコミュニケーションの下手な偏屈というイメージがあるのではないかと思うが(実際博士も「私」に対してはそのイメージを大きくは裏切らない態度をとる)、ことルートに対しては親である「私」すらも及ばない類まれなる愛情表現の才を見せる。
それはなぜなのか。
それは博士が数学者だからである。
博士は数字の体現する世界の秩序を愛する。それはすなわち世界の成り立ちを愛するということであり、ひいてはその秩序の生み出す存在そのものも愛することが出来る。
どんなに懸賞問題で一等をとろうと、「神様の手帳を盗み見て写し取っただけ」であるから自分の功績ではまったくないと考える。既に答えが用意されているというのもあまり気に食わない。そして一度答えに到達してしまったら、もうそこに興味はない。
研究生活で自分の成し遂げたことを振り返って、一度でもそれを自分ひとりの功績であって、自然の摂理に対して何がしかの支配権を得たような錯覚に陥ってしまった人は博士のように人を愛せない。
世界が抱える真実が実に広大で偉大であることを十分に理解してその前で跪くものだけが、自然という真実が生み出すものの尊さを知る。
博士にとってルートは真実が生み出した存在であると同時に、人の手の決して届かない、フェルマーの最終定理よりもはるかに難解な、永遠に解かれることのない問題なのである。
そしてそのことを正確に自覚して、博士の愛情をその平らな頭に無限に受け入れるルートという子どもが最も感動的だ。
さて、以下私事。
この話の中で重要なカギを握るオイラーの公式だが、大学の教養数学や物理化学で頻繁に用いられるオイラーの公式は三角関数を使った形で表されている。なので最初フェルマーの最終定理の証明の途中で用いられるというeπi+1=0という数式を見てもオイラーの公式であるという確信が持てなかった。
理系でしかも大学院を出たなどというと数学がメチャメチャできると思われがちなのだが、大きな間違いである。高校までは、女子高だったこともあり全体的にみんな数学が苦手だったので私はむしろ相対的には得意な方に分類されていたのだが、大学に入った途端ピクリとも歯が立たなくなった。
それもまあ一年生の間だけ、しかも後期はあきらめて申告すらしなかったので、数学の勉強はそれっきりである。それでよくもまあ物理化学だの量子化学だのやらせるものだ、という感じで実際問題量子や物理化学をやるとき、多くの数式に悩まされた。特にオイラーの公式はしばしばここぞというときに必ず出てきて式変形を大きく前進させる超重要な公式で、これを覚えていないと話にならない。
にも関わらず、そういった公式の導出手順からすべて勉強している余裕はすでにそのとき残されておらず、というか勉強してもおそらく理解できず、なぜそうなるのか一ミリも分からぬまま公式を天下り的に受け入れて利用するしかなかった。
それは、曲がりなりにも理系として生きてきた人間にとってとても苦痛だった。高校生のときならば絶対に受け入れなかったであろうと思う。なのでオイラーの公式を見るたびに私は自分の子ども時代が終わったのを感じる。